「わたしのマンスリー日記」 第12回 林真理子理事長、辞めなくていいですよ!!――イチハラ・ハピネス
法人法では国立大学ごとに理事の数が決められていました。T大は東大の6名の上をいく7名の割り当てでした。多くの理事を得たのは直前に隣にあった国立T大学を併合したからだと聞きました。
私はその7人の理事の1人として命を受けました。担当は東京都を中心に千葉県・埼玉県・神奈川県に点在する11校の附属学校の管轄でした。東京大塚にあった旧東京教育大学のキャンパスに附属学校教育局という教育委員会のような組織を設け、その初代教育長に任命されたのでした。その任を断る選択肢もあったはずですが、そんなことを言える状況ではありませんでした。その前年度から学校教育部長を拝命しており、学校教育部長が教育長に横滑りするというレールが敷かれていたからです。それは運命というしかありませんでした。
まず組合との団体交渉の矢面に立たされました。大学の方針と組合の意向はしばしば大きく食い違い、団交は深夜に及びました。たまりかねた副委員長が「教育長、このままではにっちもさっちもいかないので、一度腹を割って話しませんか」と言ってくれ、組合の委員長・副委員長と池袋のホテルで話しました。終わって居酒屋に誘って3人横並びに座って語り合ううちに、わだかまりが熔けていくのがわかりました。
教育局には附属学校配置の職員を含めると、数十人の事務スタッフがいましたが、ある時、会計を担当していた若いスタッフが1000万円以上を着服するという事件が発覚しました。本人は当然懲戒免職の処分を受けましたが、処分は監督不行き届きということで事務系のトップの次長にも処分が下されることになりました。
どのような処分になるかになるかは本部で決めていて、私は一切関与していませんでした。私を関与させなかったのは教育長も処分の対象になるかもしれないからだと言われました。それはそれで納得いく理屈でした。
某年某月某日、教育長室で次長への処分が伝えられることになりました。私は上司ということで、処分の書面を読み上げただけです。何しろ処分内容さえ知らされていなかったのですから。
処分内容は誡告でした。訓告だと単なる注意で終わるのですが、誡告だと履歴に残るということでした。文科省で一から勤め上げてきた本人にとってはショックで、屈辱だったに違いありません。それは容易に推測できました。
しかし、問題はそれからでした。上司である私に敵愾心を露わにして、私を無視し続けました。目も合わせることなく、口を利くこともなく、週1回の教育長との打ち合わせにも顔を出しませんでした。その態度は異常としか言いようがないものでした。その態度は半年も続き、私が副学長として退職する時も挨拶一つありませんでした。
本人を責めるつもりはありません。本人も苦しかったのでしょう。ただ私からすると、これは余りに悲しく辛い経験でした。一つの処分がこれほどまでに精神を貧しくさせるものなのか――そう思わざるを得ませんでした。
それから2、3年後、某所で偶然顔を合わせる機会がありました。その時は笑顔で挨拶してくれました。素直に、ありがとう……! と思いました。